女教師Aの小部屋R

あちこち行ったり観たり食べたり

着ているものはその人をあらわすというのは当たり前のこと

何を着るかとか何を持つかとか、そういう選択の結果というのは、その人の内面や価値観をあらわしている。
だから「リアル・クローズ」で絹江はどうにもやぼったい格好から抜け出すべく訓練を積まなくてはいけないし、その他のファッショナブルな人たちはその訓練の積まれてなさに(ドラマだと第3話の途中あたりまでの絹江に)苛立ちを覚えるのだと思う。自分の周りを取り巻くものは、用(衣服の場合は身体を覆うということ)を足せばいいというものでもないし、高いからいいというものでもない。逆に、好きなものだけをまとえばいいというものでもない。いつどこで誰にどんな用事で会うか、ということで何を着るべきかが見えてくるはずで、それが見えない人は何かが足りない。しかし、その何かは訓練とかそういうもので補うことができる。
それは、人のアドバイスであったり、ほんの少しの知識であったり、そういうようなものだ。ただ、それを素直に自分のものにすることは難しい。


人生に高い服なんていらないよ、という人は、高い服がいらない人なりの人生しか歩めない。
過激な言い方をするなら、ファッションを笑って「そんな高い服いまどき着るやついねーよ。派遣村とかみてみろ」とか言う人は、そんなとっぱずれたことしか言えないから、そんな人生なのだ。


ところで、私は自分でもちょっとどうかと思うくらいに食べることと着ることに執着がある。
美味しいものが食べたいから毎日のご飯をつくり、保存食や果実酒をつくる。好きな服が着たいからあちこちの店をのぞき、なければつくる。自分の体型にあった服は自分の着姿を美しく見せてくれるし、着痩せ効果だってある*1。どんなブランドが自分の体型にあい、サイズ展開をしていてどんな価格帯かはだいたい把握しているし、どこの布屋にどんな感じの生地が入っていて、つくりたいものに合わせて布を選ぶことができるし、最近は糸紡ぎもはじめたから、編み物の材料である毛糸も市販品以外の選択肢があることも学んでいる。つくる手間と労力と、既製品もしくはオーダーの値段を天秤にかけて、自分に適した方を選ぶ。


でもそれは私が服がどうやってつくられているかを知っていて、その技術がそれなりにあって、料理も苦にならないからできることだ。


こと生活に関することについては、自分が情報弱者であるかどうかということが非常に分かりづらいんじゃないのかと感じる時がある。
生活に必要なものでつくれないものが少ない(が、買った方が楽だったりあえてつくらなくてもいいと思ってるものもある)という人と、生活に必要なすべてのものは買うしかないものだと思っている人との間には、情報量に差がある。でもその差は見えづらい。


というようなことを考えながら科研費の申請書類を書く秋です。

*1:自慢じゃないけど、私は着痩せ名人だ