女教師Aの小部屋R

あちこち行ったり観たり食べたり

不幸上手

一晩たって少し冷静に『負け犬の遠吠え』について考えてみる(でもあんまり冷静じゃないの.だってあかねはまだ勝負の真っただ中なんだモン☆<勝ち犬っぽい言い方をしようとして大失敗)
とはいえ本はもう図書館に返却してしまったので記憶とその他の方の書評を参考にしつつ話をすすめます.

以下の文章は
結婚している=勝ち=幸せ
結婚していないもしくはできない=負け
という前提でかいています.

そもそも負け犬と自称することと,負けを自分の中で認めるということはイコールではない.負け犬を自称するということは「私は負けを認めていますよ」というポーズにすぎないわけで,勝負から降りたフリをしながら一発逆転勝ちできるかもしれないと考えているようにもみえて姑息だ.
人が自分に何かの呼称をつける時というのは本当に自分がこうありたいという理想をネーミングとして掲げるか,逆に呼ばれても辛くない(か,そう呼ばれることでその辛さに酔える)ネーミングを選ぶかのどちらかだと思うし,ネガティブな言葉を自称する時,人は後者の考え方で自分の呼称を主張する.

負け犬を自称するのは「結婚して子どもがいる=勝ち」という価値観からみると自虐的ではあるが,本当に自分が負けたと思っているというよりも「好きなことをしてたらいつのまにか負け犬になっちゃってたのよね私ったら可哀相」という自虐的な快楽であると感じられる.
自虐的な快楽として不幸に酔っ払うのは楽しい.自己愛は堪能できるし,周りからも可哀相ね・大変よねと優しい言葉をかけられ,まかり間違えば自分を守ってくれるナイトがあらわれるかもしれない.けれど,個人的には小さな不幸に酔うのが許されるのは学生までだと思っている(本当に大変な状況にある人は酔っている場合じゃないので除外)し,そうやって不幸に酔うということは,幸せ(=勝ち=価値)を与えられるのを待っている姿でもある.待っていて幸せを与えられる人というのは少ないし,それなりの年齢をすぎてそのチャンスがなかった人はその先に幸せを与えられる機会というのはまず巡ってこないだろう.もし幸せになりたいのならば「幸せな私」の明確なビジョンを考えてそれにむかって自力で進むのがよい思う.その通りに人生が転がるかもしれないし,そうでないかもしれないけれど,自分で選んだことに自分で納得できないのであれば勝負には出ない方がいい.
自分の人生の落とし前は自分でつけないとね.

なんか書くのに時間をかけすぎてしまったのでちとわけわかんないかんじ.
全体的には「僕はここにいてもいいんだ」とかそんなオチなわけで「私こんなんでいいのかしら…」と思っている人にはいいのかもしれません<逆を言えばそうでない人には不要な本だ.